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012 一畳敷
 
012 一畳敷012 一畳敷012 一畳敷
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寄せ集め、もしくは書斎
2012年4月16日
人間一人の大きさを鑑みると、千利休による二畳敷の茶室《待庵》こそが最小限の建築であり、それ以下の寸法からなる空間は建築とは呼べない、と聞いたことがある。一方で建築外とされるものには、建築という概念をめぐる制度が隠れている気がしている。春の《一畳敷》へ向かった。
幕末から明治にかけ、蝦夷樺太を含む日本各地を歩きまわった松浦武四郎(1818〜1888)は晩年、畳一畳の書斎である《一畳敷》を神田に設ける。道すがら知り合った各地の人々に手紙を書き、三井寺、法隆寺、伊勢神宮など、現在では文化財と呼ばれる建築物の古材を取り寄せ、組み上げた。武四郎は自分の死後、この書斎を焼き払えと伝えるものの、その後徳川頼倫が麻布に移築、さらに山田敬亮が三鷹に移し現在に至る。
《一畳敷》は量産できないメール・オーダー・ハウスである。また武四郎が古材の由来を図面と共に記し出版した『木片勧進』は、他者が真似することができない雛形書でもある。量産できない一品生産品だから前近代の所業であり、かけがえのない建築物だというわけではない。現にアイヌ語の地名を記録した測量調査図である《東西蝦夷山川地理取調図》や、河鍋暁斎に依頼した発注芸術である《北海道人樹下午睡図》など、《一畳敷》は近代をめぐる豊かな物語の中に存在している。私的な空間の極致とされる人体寸法ぎりぎりの茶室。それ以下とされる独立した一畳の書斎は、さながら武四郎の生首、脳味噌だけの空間か。ともあれ寸法、平面計画、プロポーションだけが、建築をめぐる思考の根拠にはならないことを、《一畳敷》は教えてくれる。
古材を寄せ集め、それを器用に組み合わせる。文化財に由来する素材を私的に流用することは、いまや許されないだろう。だが芸術や作品を一品生産を指す言葉として狭義に使用し、それ眺めていても建築物の保存は成立しない。そもそも建築外とされるものを安易にアートと呼び、規制がなく自由なものだと決め付けることこそが、翻って芸術や作品という言葉を偏狭にしていく。建築物や都市はもちろんのこと、芸術、作品、そして文化財に、さまざまなデザインの主体が介在することはごく自然なことだ。好事家の私性を象徴する遁世の庵は、何某彼某が他の主体として介在することによって、現在の敷地に佇んでいる。(t)
一畳敷
設計:松浦武四郎ほか
竣工:一八八七年
泰山荘、一畳敷は国際基督教大学が所有しており、通常は一般公開されていません。
見学、撮影については、同大学湯浅八郎記念館の方々にご協力を賜りました。厚く御礼申し上げます。
   
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