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013 下志津小学校
 
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ビルディングエレメント、もしくは小学校
2012年7月7日
納まり、つまり部材の取り付けや仕上がりの具合を確認することは、建築物を見学する上で教わる作法である。部材の接合部、ディティールへ自ずと目がいく。普段の生活では見慣れぬ《下志津小学校》の窓枠のアルミサッシに、ふむふむと頷いてみる。カタログを開き部材を発注することでは得られない、産業技術を選択し設置することで建築家が試行錯誤するための現場のリアリティが、まだそこには残されている気がした。
屋根、天井、壁、床といった、空間を仕切り遮蔽または透過を担う二次元の面は、ビルディングエレメントと呼ばれる。一般に建築や都市に携わる人々が「空間」と呼ぶとき、それは平面的な存在であるビルディングエレメントに囲まれた三次元のヴォリュームを指している。この前提に立てば、建築物はエレメントとそれらが組み合わさる接合部との集合として捉えられる。構造力学と環境工学を正直に表現した「社会」的な意匠。ただしそこでは、直方体の組み合わせを空間として抽象的に認識するための素養、つまり「空間」への理解が、建築物の使用者に半ば強引に求められる。言い換えれば、当時の建築の計画者が目指す「社会」の中で、建築の使用者は自ら「空間」を理解する役を背負わされているともいえる。
戦後日本の都市は、焼け野原を目の前にした復興への自負心を反芻するかの如く、新陳代謝を繰り返し均質化していく。竣工直後に撮影されたであろう《下志津小学校》が発表された写真には分譲された住宅がわずかに写りこむだけで、周りには何もないように見える。しかしこの小学校の建つ佐倉は、陸軍歩兵第二連隊を含むかつての佐倉連隊が駐屯した土地でもある。この小学校は、第二次大戦以前からの場所の歴史、地域の歴史の中に位置づけられなければならない。あるべき理想像を指し利用された「社会」という言葉を社会史という地域の歴史に解き放つためにも、建築における「空間」という言葉もまた、相対化される必要がある。
戦前と戦後の間にある不要な目地、建築と都市を読み取る間に無意識的に設定される境界線を飛び越えてみよう。ビルディングエレメントという建築の見方は、戦前に議論された建築における構造と意匠の分離という問題を、戦後にも延長させてその総合が図られた結果だと捉えることができる。ただしそこでは構造と意匠という二分そのものが妥当であり、その枠組みが理想のままに都市へと拡張されうるという前提は問われることはない。つまりこうした「社会」的な意匠、構造表現主義としての建築のありかたは、戦前の枠組みの延長であるのと同時に、戦後という新たな時代像を帯びている。ビルディングエレメントそして「空間」は建築をかたちづくるすべてなのではなく、建築物を見学する作法のひとつでしかない。
共同設計組織であるRASは、Reseach Studio, for Architecture Spaceの略称であるとともに、宮沢賢治が農民芸術論を講義するために設立した羅須地人協会に由来して名づけられている。ゆえに設立当初の彼らにも、建築における「空間」という作法への信仰と、それを啓蒙する意志が垣間見える。だが次第に声なき声がつくりだす均質的な都市が、否が応でも視界に入るようになる。外部としての都市からの要請、ここでは露出した建築設備とコンクリートとによる躯体によって立ち上がる三次元の建築空間に対し、RASはそれでも人間内部からの要請に基づき孔を穿つ。それはけっして、建築の自律性を頑なに主張するための自己充足などではない。あくまでも部分から全体へ、建築物から都市へ、連続的に歴史を読み返す行為なのである。
この建築物は耐震性を理由に、現在は使われていない。がらんとした教室に架かる校歌が気にかかる。「叫べ下志津の子ら 君の住むこの地は 土器つくるひといのちを伝え 伸びる君はつながるいのち」。作詞は柴田翔である。(t)
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《下志津小学校》(1968年)
出典:原広司「現代建築の実践的課題」『建築文化』、1968年4月
佐倉市立下志津小学校
設計:RAS建築研究所(原広司、三井所清典、伊藤允規、落合弘子、北川若菜が担当。他に香山壽夫、慎貞吉、宮内康、上杉啓、唐崎健一、塩野谷建治郎、宮武恒男、小川朝明、都筑方治、川上岩男、神山保弘、石井康治など。)
竣工:一九六八年
   
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