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001 ヒアシンスハウス
 
もうひとつのヒアシンスハウス その一

「立原は、もとは湖の東側にヒアシンスハウスを建てたかったんですよ。」

「ただ、今の別所沼公園には、東側に十分余裕のあるスペースがなかったものだから、それじゃあ、ということで、湖の西側、今のところが敷地にあてがわれることになったんです。」

 ヒアシンスハウスには、週三日、交替でボランティアの方がおり、訪問者は彼らの案内を聞くことが出来る。見ようによっては、公園の案内所のような小屋の中に座る彼らが説明してくれるのは、実際には小屋そのものにまつわる色々の話だ。
慣れた様子でボランティアの方が、ヒアシンスハウスのこと、設計者であり、夭逝した詩人でもあった立原道造のこと、等をすらすら説明してくれるのをなんとなく聞いていたところ、冒頭の会話がなかなか頭から離れなくなってしまった。このわずかな会話が、頭の中でヒアシンスハウスがうごめき始めるきっかけだった。

001 ヒアシンスハウス

 と、ずんずん話を進めてしまう前に、ヒアシンスハウスの特殊な成立事情を簡単に記しておきたい。今の状態から想像するのは難しいかもしれないが、浦和の別所沼湖畔は昭和初期、若い芸術家たちが集い住む、ちょっとした芸術村であった。立原は日々、設計の仕事に明け暮れながら、別所沼湖畔に、詩作やスケッチなどして過ごす小さな小さな家、とも呼べない小屋を持つことに思いを馳せ始めた。構想は五十数枚に及ぶドローイングやスケッチとして残された。立原は若くして世を去るため、生前に小屋が湖畔に立ち上がることはなかった。この小屋こそが、今湖畔に建つヒアシンスハウスだ。十数年前より、ヒアシンスハウスを湖畔に実現させようという機運が高まっていたのだが、二〇〇四年、ようやくにして、建設の運びとなった、という経緯がある。つまり、立原が別所沼湖畔にいつか建てるために残したスケッチを元にして、ヒアシンスハウスが現代にその姿を現したのだ。

 経緯を一通り見渡してみて、約七〇年前の青年詩人/建築家の夢が、人々の熱心な活動によって甦り、現代に実現したのだ、という感動的な側面ばかりに注目してしまってはいけない。立原は詳細な図面を残した訳ではない。建築家であれば、スケッチやドローイングといった類のものが、修正に次ぐ修正の、その連続の過程であるというようなことは、もちろん念頭にある。しかし、ヒアシンスハウスは、残された五十数枚のスケッチの中から数枚が全体像の骨格として定められ、メモやスケッチを継ぎ接ぎしていくようにして設計された。あえて言うなら、とても不確かな手続きを取られた特殊な建築として眺めることも可能なのだ。
しかし、ここで言う不確かさには、さらりとは説明出来ない、なんとも不思議なアイデアが潜んでいるような気がしてならない。冒頭の会話が、私にとってそのアイデアをひもといてゆくためのゲートだ。(s)

001 ヒアシンスハウス

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